アド・ラインハルト(アド・ラインハート Ad Reinhardt、1913-1967)
1994年の1月から3月にかけてロンドンのハムステッドにあるカムデンアーツセンターで「Symptom of Interference, Conditions of Possibility」と題された展示会があった。アド・ラインハルト、ジョセフ・コスース、フェリックス・ゴンザレス=トレスという3世代にわたる、現代美術界に重要な足跡を残した芸術家の重要作をいくつか紹介したエキシビションである。ラインハルトから絶大な影響を受けたコスースそして、次世代の芸術を文字通り鑑賞者に媒介させていったゴンザレス=トレス共に興味深い作品を展示していたが、私が今回最も注目したのは、美術界では有名だが案外実物を見る機会が少ないラインハルトの「Abstract Painting」だ。
ラインハルトは一貫して幾何学的な構成をもつ抽象画を描いてきたが、1960年代に入ってからは俗にブラック・ペインティングと呼ばれる作品を繰り返し発表してきた。この一連の作品は、彼が半生にわたり「究極の抽象」を目指し描いてきた絵画の到達点となったものである。ブラック・ペインティング(Black Paintings)は一辺が約1.5メーター程の正方形のキャンバスに均等に9等分された色面によって構成されている。一見すると黒色のように見える各々の面は実際には青、緑、茶といった色の最暗のトーンで着色されているという。各面は筆跡を一切残さぬよう、極めて繊細な仕上げがなされているが、光沢の差異によって各々の境界がかろうじて確認できる。神秘的な趣を湛えた作品であり、同時代の抽象表現主義絵画とは一線を画す作品である。ラインハルトはこの黒一色に見まごう絵画を、生涯の最後の7年間繰り返し描き続けた。この「変更しようがなく、使い物にならず、商品価値がなく、撮影できず、印刷することさえ出来ない説明不可能な(*)」作品にはもはやイリュージョンとしてのアイコンは存在せず、ただ「闇」があるだけだ。
ラインハルトが好んだ「黒=闇」は彼に影響を与えた東洋の哲学との関連が読み取れる。彼は文明の発展を東洋の一元論的な自由観に求め、逆に自身が属する退廃的な西洋の感覚論や唯物主義を拒否した。それは同時に絵画の素材をキュビズム、シュールレアリズムや表現主義を媒体としながら、その社会的コンテクストを形骸化する一方、西洋の合理主義的美学に安住し、非文明な精神性に依存する同時代の抽象表現主義への批判となった。芸術家がプラトンの洞窟から抜け出し、独自の絶対性を確立するには、日々進歩し続ける精神の高揚こそが重要であるが、彼はその礎をカント的美学ではなく、東洋の思想に見出したのである。パターンや繰り返しによって描かれる、東洋の様式美を意識したブラックペインティングは、西欧の退廃的な社会を素直に反映する大衆文化やマスメディアからのハイ・アート(高等芸術)の断絶を意味し、その色面からは曖昧なイリュージョンは消えうせ、虚無の中からその純粋性だけが立ち上がる。当時は必ずしも正当に理解されなかったラインハルトの絵画だが、その背後にある思想にしっかりと裏打ちされたコンテクストや極度に還元された色面は、次世代のミニマリズムや概念芸術へと確実に受け継がれていった。
1960年代は美術のパラダイムシフトが起きた時代である。この時代を境として美術作品は大きく変貌した。それまでは作品と乖離していた鑑賞者は作品に取り込まれ、その一部を構成する要素となった。また、個々の作品は「批評」の対象から批評するものへと変化し、そのコンテクストを通じて社会に働きかけるようになった。芸術と生活との境が破棄され、それを契機として作品を統一するフォーマットも消滅し、あらゆるメディウムが境界を越えて芸術作品の素材へと開放されていった。こうした中で、ラインハルトの絵画が示唆するのは、批評が使命となった美術作品の純粋性のありかたであり、後によく語られるようになる批評と対象との距離の問題でもあろう。大衆文化やマスメディアを取り込むことで成立する現代美術だが、実際にはそこからの距離を常に意識する精神の高揚によってのみ、そのハイ・アートとしての純粋性が保たれる。ラインハルトが活動した1940年から1960年代の文節で芸術作品の「純粋性」というと、まず批評家クレメント・グリーンバーグ等が提唱したフォーマリズムが思い起こされる。だが、ラインハルトが最後に到達した「純粋」なブラックペインティングは、まさにそのフォーマリズムが拠りどころとしたカント的自由や作品の持つオーラの最終的な清算によって成し遂げられたのである。現在では画家としての名声が残るラインハルトだが、生前は主に教師や作家として生計を立てていた。それが結果的に彼に美術界や美術市場を冷静に見つめる目を与えることになったようだ。
(* Art as Art: The Selected Writings of Ad Reinhardt, Ed. Barbara Rose, University of California Press 1991, pp83-84)...all black, all the same size, all five feet square, all painted the same, all dating since 1960.)
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ラインハルトは一貫して幾何学的な構成をもつ抽象画を描いてきたが、1960年代に入ってからは俗にブラック・ペインティングと呼ばれる作品を繰り返し発表してきた。この一連の作品は、彼が半生にわたり「究極の抽象」を目指し描いてきた絵画の到達点となったものである。ブラック・ペインティング(Black Paintings)は一辺が約1.5メーター程の正方形のキャンバスに均等に9等分された色面によって構成されている。一見すると黒色のように見える各々の面は実際には青、緑、茶といった色の最暗のトーンで着色されているという。各面は筆跡を一切残さぬよう、極めて繊細な仕上げがなされているが、光沢の差異によって各々の境界がかろうじて確認できる。神秘的な趣を湛えた作品であり、同時代の抽象表現主義絵画とは一線を画す作品である。ラインハルトはこの黒一色に見まごう絵画を、生涯の最後の7年間繰り返し描き続けた。この「変更しようがなく、使い物にならず、商品価値がなく、撮影できず、印刷することさえ出来ない説明不可能な(*)」作品にはもはやイリュージョンとしてのアイコンは存在せず、ただ「闇」があるだけだ。
ラインハルトが好んだ「黒=闇」は彼に影響を与えた東洋の哲学との関連が読み取れる。彼は文明の発展を東洋の一元論的な自由観に求め、逆に自身が属する退廃的な西洋の感覚論や唯物主義を拒否した。それは同時に絵画の素材をキュビズム、シュールレアリズムや表現主義を媒体としながら、その社会的コンテクストを形骸化する一方、西洋の合理主義的美学に安住し、非文明な精神性に依存する同時代の抽象表現主義への批判となった。芸術家がプラトンの洞窟から抜け出し、独自の絶対性を確立するには、日々進歩し続ける精神の高揚こそが重要であるが、彼はその礎をカント的美学ではなく、東洋の思想に見出したのである。パターンや繰り返しによって描かれる、東洋の様式美を意識したブラックペインティングは、西欧の退廃的な社会を素直に反映する大衆文化やマスメディアからのハイ・アート(高等芸術)の断絶を意味し、その色面からは曖昧なイリュージョンは消えうせ、虚無の中からその純粋性だけが立ち上がる。当時は必ずしも正当に理解されなかったラインハルトの絵画だが、その背後にある思想にしっかりと裏打ちされたコンテクストや極度に還元された色面は、次世代のミニマリズムや概念芸術へと確実に受け継がれていった。
1960年代は美術のパラダイムシフトが起きた時代である。この時代を境として美術作品は大きく変貌した。それまでは作品と乖離していた鑑賞者は作品に取り込まれ、その一部を構成する要素となった。また、個々の作品は「批評」の対象から批評するものへと変化し、そのコンテクストを通じて社会に働きかけるようになった。芸術と生活との境が破棄され、それを契機として作品を統一するフォーマットも消滅し、あらゆるメディウムが境界を越えて芸術作品の素材へと開放されていった。こうした中で、ラインハルトの絵画が示唆するのは、批評が使命となった美術作品の純粋性のありかたであり、後によく語られるようになる批評と対象との距離の問題でもあろう。大衆文化やマスメディアを取り込むことで成立する現代美術だが、実際にはそこからの距離を常に意識する精神の高揚によってのみ、そのハイ・アートとしての純粋性が保たれる。ラインハルトが活動した1940年から1960年代の文節で芸術作品の「純粋性」というと、まず批評家クレメント・グリーンバーグ等が提唱したフォーマリズムが思い起こされる。だが、ラインハルトが最後に到達した「純粋」なブラックペインティングは、まさにそのフォーマリズムが拠りどころとしたカント的自由や作品の持つオーラの最終的な清算によって成し遂げられたのである。現在では画家としての名声が残るラインハルトだが、生前は主に教師や作家として生計を立てていた。それが結果的に彼に美術界や美術市場を冷静に見つめる目を与えることになったようだ。
(* Art as Art: The Selected Writings of Ad Reinhardt, Ed. Barbara Rose, University of California Press 1991, pp83-84)...all black, all the same size, all five feet square, all painted the same, all dating since 1960.)
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